第3回インタビュー記事:島田洋七さん
漫才ブームで一世を風靡した「B&B」の島田洋七さん。圧倒的な人気で頂点を極めたものの、めまぐるしいスピードでブームは移り変わり、一時はぱったりと仕事がなくなったと言います。しかしその後自身の幼少期を書いた著書「佐賀のがばいばあちゃん」がシリーズ累計1000万部を超え、様々な言語に翻訳され海外にも広がっています。現在は人生論や経験をテーマにした講演を中心に活動し、その数なんと35年で4900回を数えるそうです。人生で何度も大きな華を咲かせ、70歳になった今も大好きだという講演の仕事を精力的に続けておられます。
幼少期には小学校2年生という幼さである日突然親元から離され、遠く離れた祖母のもとに何年も預けられるという経験、芸能界では人気の絶頂から一気に仕事が無くなるという挫折など、決して楽ではない道のりのように見えますが、意外にも「苦労はほとんどしてない」と明るく人生を振り返ります。思い通りにはいかないことや挫折があっても腐らず、人から喜ばれ自分が楽しいと思えることを見つけやり続けてきた島田さんに、その考え方や生き方を伺いました。
―今年は感染症の流行で特に社会全体に不安要素が多いですから、こんな時代を生き抜くヒントが島田さんの生き方にあるのではないかと思っています。
島田さん:僕は講演会で全国を周ることが近年の仕事の中心になっていますから、僕自身もコロナの影響はまともに受けました。コロナの前は多い時で年間300本以上、最近は徐々に減らしていたもののそれでも年に100本の講演は受けていました。それが3月以降全て中止や延期です。7ヶ月間も全く仕事をしないというのは人生で初めてですよ。弟子の時でも師匠の仕事があったし、アルバイトをしていた時もありました。だから今回の京都府立医科大学での市民公開講座『健康で長生き』は本当に久しぶりの講演で、「ちゃんとネタが出てくるかな」と前の晩に頭をよぎったりもしたんです。でも実際やってみると、お客さん全員マスクをしているにもかかわらずすごい笑い声が上がった。あぁ嬉しいなぁと、これまでやってきた講演会の中でも一番、自分が嬉しかったですね。直接お客さんの反応が見れて「楽しかった」と言ってもらえるこの仕事が、ほんまに好きなんです。
僕と講演会の出逢いは30年以上も前のことなんですけど、ある人から大学教授やお医者さんがする真面目な講演会はあっても爆笑させる講演会はないと聞いたんです。1回やってみたら、これが楽しい。これで日本一になろうと思ったんです。
僕は(北野)たけしに「今までで一番売れて一番売れなくなった芸能人、日本一長い一発屋」と言われるんですけれど、芸能界というところは人気が出る時も、落ちていくときも止められないところです。漫才ブームで一気に人気が出た当時は、テレビに出まくって、まだ芸人が歌番組の司会なんて珍しかった時代に司会なんかもしました。本当に東京のすごい芸能界を見ました。ところがその後ぱったりテレビの仕事が無くなって。仕事が無くなったからたけしの家に6年くらい居候してたんです。その頃からちょこちょこ講演の仕事はやっていたんだけど。そんな生活も楽しかった。
自分がテレビに出なくなってからもたけしは活躍していたし、(島田)紳助が売れたりしたんだけど、僕はへっちゃらやった。世間は芸能人ならテレビに出ているのが一番の成功と思っているけど、仕事の優劣なんかないんですよ。人と比べても仕方ないし、売れる売れないは人生に何の意味もないんです。人が思い通りにいかない時に人生に絶望してしまうのは、見栄があるからだと思うんです。見栄なんかいらないんです。
―頭では分かっていても、自分の置かれている状況や逆境に左右されずに前を向くことは簡単なことではないと思うんです。島田さんの考え方やタフな生き方のルーツはどこにあるのでしょうか。
島田さん:やっぱりばあさん(=がばいばあちゃん)の影響はあるでしょうね。ばあさんは早くに夫を亡くして35年間も毎朝4時起きで学校の掃除婦として働き、7人の子どもを育てあげた上、孫である僕のことも引き取って育ててくれました。ものすごい貧乏で食べるものにも困るほどだったんだけど、ばあさんは全然ぼやいたりしないんです。常に明るくて落ち込みがゼロの人でした。
僕は学生時代野球が大好きで、当時佐賀の田舎にいたにもかかわらずスカウトされて広陵高校の野球部に進んだんです。でも練習中に左ひじを損傷して続けられなくなってしまいました。すごい挫折ですよ。その時ばあさん何て言ったと思います?「腕がだめならサッカーせい」やで(笑)。
人生はほとんどが「そんなはずじゃない」んですよ。だから人生はおもろい。
あと、僕はさっきも言ったように講演という仕事が大好きでこの仕事に出逢えて本当に良かったと思ってるんだけど、自分の喋りで人を笑かすのが好きという気持ち1つでぶれずに必死にやってきたのが良かったかな。何度講演をしても、僕は毎回お客さんとは勝負やと思ってるんです。真剣勝負。漫才も講演も負けたことはないですよ。…五分五分はあるけどね(笑)。昔は「豪快に朝までお酒飲んでそのまま現場に行くのがかっこいい」みたいな、それを粋とするような雰囲気もあったけど、僕は仕事の前日は深酒はしなかったです。どの仕事も一回こっきりだから、失敗してもお酒のせいにしたくないし、「おもろない」と言われるのが嫌だから。
―コツコツ真剣に積み上げてこられたんですね。仕事のモチベーションはどのように保ってこられたのですか。常に目標を定めて進むタイプですか。
島田さん:講演を始めた時にこれで日本一になろうと思ったけど、基本的にいつも先のこととか考えてないんです。スケジュールとギャラが合えばどこにでも講演に出かけています。でもやり続けていたら色んな経験ができる。僕の講演は病院や学校、企業やお寺などいろいろなところから声がかかります。親鸞聖人の生誕750周年の時には、西本願寺で講演に呼んでもらったりもしたんです。仏さんの前に立ってやるんですから他の会場とは全然違いますよ。講演始まる前にお寺のえらい人が来たから「俺みたいなアホが講演やっていいんですか」と聞いたんです。そしたら「仏はアホも認めております」やって(笑)。お坊さんだって飲みに行くし遊びにも行く、普通でいいんだと。それでお坊さんや信者さんに講演をしたんやけど、仏さんにお尻向けてるから途中で後ろ振り返って「仏さんすんません」って謝りながらね、大爆笑やったよ。喋りが好きでずっとやってきたけど、まさか自分が教科書に載っているようなところで話をすることになるとは思わなかったです。
―講演会で全国を飛び回っておられますし、何カ月も前から楽しみにされているお客さんがいますから体調管理も重要ですよね。気を付けていることはありますか。
島田さん:長いこと講演会やってきたけど、コロナでこういう状況になるまでは主催者の都合で2回延期になった以外は1度も穴をあけたことないんですよ。普通はこれだけの回数やっていたら何らかの事情で中止になることがあるんだろうけど。
歩くのは大事だから、コロナで仕事がキャンセルになっていた間は毎日1万歩散歩してましたよ。家にじーっといたらネタがないしね、やっぱり外に出て行かないと。あと、お酒ですね。郷ひろみさんが健康のために60歳になった時に一番好きだったお酒をやめたと言っているのを最近テレビで見たので、僕も70歳になってできるだけ飲まないようにしています。今は週1回とか10日に1回かな。すごく活躍されていた落語家さんとかでも、若い時に浴びるようにお酒を飲んで、それが粋やと勘違いして身体を悪くしてしまった人もいます。そんなことしていなかったら今でももっと活躍できていたのになと、その人の芸が僕は大好きだったからすごく残念に思うんです。人間、いつ死んでもいいと言う人もいるけど本音では長生きしたいんやと思います。ばあさんも90歳超えた時、さすがにだんだん身体も悪くなってきて、「はよお迎え来てほしい」と頻繁に言うようになったから「本音か?」と聞くと「本音や」と。あまりにも言うから冗談で「じゃあ自分で行け」と言うたんです。そしたら「行き方が分からん」と。「三途の川を渡ったらええねん」と言うと「よう泳がんばい」やって!「やっぱ生きたいんやん」とその時言ったんです。おもろいばあさんやった。
―これからの人生でやりたいことはありますか。
芸能界入ってからは、ロケや講演会で色んなところには行ってるけど仕事以外で遊びに行ったことは本当に数えるくらいしかないんです。仕事の依頼を全部受けていたらきりがないから、少しずつ講演は減らして旅行とかに行きたいですね。講演に行った先で数日滞在したりもいいね。
でも仕事はやり続けているとちょっと休みたいなと思うんだけど、休んでたらまたやりたくなりますね。コロナでこれだけ仕事を休んでいるとやっぱり寂しかった。講演やって楽しかったと言われたいからね。やっぱりこの仕事が好きなんです。